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シートを拭き取ること

昨日に引き続きシート拭きです。

黒いシートなのでブルーシートよりも砂埃の汚れが目立つ。
まずはザッと雑巾をかけ、雑巾を換えてもう一度。ここまで奇麗にする必要もないかもしれないが、次の子どもたちを向かい入れる持て成しのように思う。

シートは気球を広げるステージのようなものだと感じる。今日拭き取ったシートを使うときは次の気球を広げるときだ。そのとき足をのせるメンバーは、新たな人たちだろう。その人たちには自分たちの場所としてシートに立ってもらいたいと思う。だから、シートを使うときはいつも新品の状態にしたい。

そしてようやく、シートを拭き終えた。
これで全ての制作が終わったように思う。

風、ときどき気球

先週13日のフライト日、毎年のように風によるアクシデントがあったが、気球を完成させ、飛ばすことができた。とは言え、13日前後の12時~15時の風速記録を見ると

▷11日 平均6.8m/s 最大13.8m/s
▷12日 平均9.8m/s 最大15.9m/s
▷13日 平均1.4m/s 最大 4.7m/s
▷14日 平均4.9m/s 最大11.7m/s
▷15日 平均2.9m/s 最大 7.6m/s

となっていて、結果的に13日がベストなコンディションだったようだ。思えば、フライト当日は「昨日だったら飛ばせなかったね」という言葉をよく交わしているような気がする。風にも感謝しないといけないと思う。

毎回、風の心配をしているのだが、一方で風の対策をあまりしていない。せいぜい、気球を押さえる重りの数や、事故防止のためのロープを増やすくらいだ。というのも、風に立ち向かおうとするとキリがない。ある程度の強度を付けても、それ以上の風が当日に吹いたら太刀打ちできない。が、それでいいのだと思う。風の合間に飛ばす、もしくは中止の判断をしようとし、風と話すように空をながめている。大気の隅っこで飛ばすくらいがちょうどいい。

そろそろ出港?

5月の制作から、およそ3ヶ月が経ち、11月頃に中学生と飛ばす気球をぼちぼち考え始める。毎年、気球を中学生とつくることは2007年から続いているが、終えるごとに新しい発見と達成感と、完成点が浮き彫りになる。

去年までの2年間は、中学生が企画から考えていた。とくに去年に感じた、大きな枠組みはふくらむで決めたほうが中学生が参加しやすい、ということも否めない。

本当は、中学生が勝手に企画を考え、つくりたいものをつくることが理想ではあるのだが、それを一方的に決めて、促すことは、中学生に対して圧力を与えていることになる。

では、その大きな枠組みをどうするか。
メンバーと話しながら、これまでにも挙げられ実行されなかった案、「船」というキーワードが挙がる。

カタツムリ空を飛ぶ


「カタツムリをでっかくして飛ばしたらどうだろう?」という話をした。
殻の構造をうまい事生かせば、形として見ても、つくる時の構造としても面白そうだ。中をグルグルと歩いてみたい。
カタツムリは陸生貝類という時点で変わり者だし、雌雄同体であったり、広東住血線虫やロイコクロリディウムを媒介したり、ヨーロッパで人に食われていたりと、なかなか面白いお話がでてくる。
真偽不明ではあるものの、氷点下120度でも生き延びるらしい。少なくとも、寒さにかなり強いというのは確かなよう。

「そういえば……。」と、話は転がっていく。
高校の頃、授業で聞いた話を思い出す。なんでも、飛行機に虫取り網をくくり付け上空を飛び、生物層を調査したところ、カタツムリが見つかったいうことだ。
にわかには信じがたいが、あの、ぬるぬるとしけった所を這いずるカタツムリは真実、空を飛ぶらしい。

「ホントかな」と、10年越しぐらいに強く気になりだしたんですが、日本語のネット上では次の二つくらいしか見つかりませんでした。
ササラダニの分類から学んだ自然
ハワイのビショップ博物館には、空中を漂う微小生物、エアープランクトンの研究者がいましたが、飛行機に網をつけて飛ぶと地上5千メートルで小さいカタツムリがとれたそうです。そんな高いところをカタツムリが飛んでるなんて、楽しくなりますね。


埼玉県立自然史博物館 自然史だより 第22号 1993.11 博物館屋上の土の中の動物
かつて、 ハワイのビショップ博物館の研究者達が1000メートル以上の上空で、昆虫採集器をつけた飛行機で調査しました。その調査で、昆虫だけでなくダニ類や植物の破片、さらにはカタツムリまでも採集されたとのことです。この結果から、風に身をまかせて空中を移動している動物が沢山いることが分かりました。


両方の高度の数値も違うので、本来なら一次資料に当たるべきなんでしょうが、そこまでするのは大変だ。

話にまとまりがつかなくなってまいりましたが、とりあえず、カタツムリは空を飛んでいる。というところで終えておきます。
ただ、「でっかいカタツムリ」というのは、どうなんだろう?紙でつくって膨らましてもイマイチかなぁ。

「自由にかく」のは難しい。とても。

自由に01

ふくらむの写真を見返していたら少し前のカラパイアの記事を思い起こした。
ふくらみも飛びもしない話だけど。
驚異の色彩感覚をもつ5歳の天才抽象画家、アリータ・アンドレちゃん : カラパイア

「こんなん俺でも描ける」と言いたいところだけれど、実際のところ多分ムリ。
適当、あるいは自由に描いている「だけ」に見えるけれども、こういうのって案外難しい。

また、出来上がったものに対する良し悪しの判断も保留しておく。
この手の画に対する評価についてスウェーデンのジャーナリストが仕組んだ「Pierre Brassau」という面白い話がある。
又聞きのため正確な話は分からないので、ごく簡単に説明すると、「チンパンジーに描かせた画を、フランスの前衛芸術家が描いた作品と偽って展覧会を開いた時、評論家たちはどのように振舞ったのか」というお話。興味のある人は調べて見てね。面白いから。そして、詳しい話を教えて欲しい。

さて、話は「ふくらむ」へとつなげます。強引に。
ふくらむの今までの制作の中で「ソラニラクガキ」「カゲオクリ」「かみふうせん」「かげから」「色+色(イロトイロ)」あたりは、ものすごーく大雑把に言うと、「参加者に自由に何かを描いてもらう」企画といえる。

そういう状況で、人はどのようなものを描くのか。
当然に、人によって違うわけだけど、いくつかのパターンがある。もしかしたら年齢や男女に関係するのかもしれないけど大体こんなかんじ。

1.自分の好きな色でグイグイと塗っていく
自由に02自由に03
割りに幼い子に多いような気がする。
長時間に渡って没頭して塗り続ける人もいる。

2.キャラ、記号、文字自由に04自由に05自由に06
顔とか、ハートとか、手書き顔文字とか。
小学校高学年から中学生くらいだと、自分の名前とかアルファベットとか書いちゃう。

3.ちょっと飽きてきた
自由に07自由に08
描くのに飽きてくると、ハケを叩きつけるように使ったり、足跡でスタンプを始めたりもする。
1のパターンとこのパターンは紙が破けることが多いので後の修復も大変だ。

4.他と関わる
自由に09自由に10
他の人が描いた上に別のものを描いたり、縁取ったりする。
尚、下の写真には「LOVE」と「萌」が隠されていたりします。

5.マイルール縛り
自由に11自由に12
中学生以降に多いような気がする。
円で埋めるとか、グラデーションで仕上げるとか、ハケ跡をそろえるとか、何らかのルールを作って描いていくパターン。

6.バランスタイプ
自由に13
5よりさらに、色とか形とかをバランスよく仕上げていくパターン。
好き勝手に描いていいはずなのにそうならない。
これが更に進んだ「何も考えていないかのように、考え抜いて」描いている場合もある気がする。

とまあ、いくつか分類をしてみたものの、ちゃんとしたものではなく、あくまでも個人的な印象によるものです。
こういうのって真剣に研究している人もいるんだろうか。

気球でやってはいけないこと

小中学生と作った気球を飛ばす直前の打ち合わせで必ず説明することがあります。
ふくらむの制作において、「~してはいけない」という言葉を使うことは滅多にないのですが、気球につながれたロープを送り出すときにだけ「絶対にしないで」と強く言っています。

それは、「気球をゆっくりと等速で送ること」「ロープに指を巻き付けないこと」「ロープを握りながら滑らせるように送らず、両手で交互にロープを掴みながら送ること」の3点です。

禁止マーク総合.jpg気球をゆっくりと等速で送らず加速させてしまうと、減速させ停止させるのが非常に困難になります。最悪の場合、用意したロープの長さ内で止められず気球が飛んでいってしまいます。ロープに指を巻き付けると気球の浮力が強い場合、指がロープで締め付けられます。ロープを握ったまま手の摩擦で減速させようとすると、手の皮が剥がれます。

という危険性があることで「これらは絶対にやってはいけないこと」として話しています。

昨日「はらぺこあおむし」の気球を見に行き、もう1つやっていけない項目があることに気付きました。

「あおむし」を離陸させるとき、気球につながれた数本のロープを10人以上の人で引っ張っていました。サブロープをゆっくり送りながら浮上すればよかったのですが、サブロープの人たちが一斉に手を離し、全ての力が気球のバナー口につながれた一本のメインロープに集中しました。

あおむし12.jpg
その数秒の加速で気球に勢いがついてしまい、3.4人がぶら下がってしまうほどの浮力が瞬間的に生まれてしまいました。

離れて写真を撮っていた僕も、数人がロープにぶら下がっているのに気付き、駆け寄ってロープを握りました。が、すごい浮力で僕の体も持ち上げられてしまうほどです。手を交互にロープを送り、ゆっくりと減速させようと試みますが、みんな必死になってロープにしがみつき上昇を止めようとします。ロープを握る僕の手の上からも何人もの手が押さえつけ、手からロープが離せません。

手がロープに擦られて離そうとしても、僕の手の上から押さえつける人は痛くないので強く握ります。「痛い!痛い!」と叫んでも「このままだと飛んでくぞ!!」という勢いに揉み消され、言わば集団パニック状態。

数秒後になんとか気球の上昇が止められ、ようやくロープから手を離すことができました。
気球が無事飛んだことを確認して、すぐに保健室へ。
気球をやり続け、もう15年ほど経ちますが、今までにない怪我でした。

そこで教訓。「やってはいけないこと」のひとつに「ロープを持っている人の手の上から握り、減速させようとしない」ということを、次の気球では説明しなければと、身をもって感じました。

はらぺこあおむしの浮力

先日見に行った「はらぺこあおむし」の浮力が非常に強かったので、大雑把ではありますが浮力計算をしてみました。

まず、はらぺこあおむしの体積を出してみます。青虫の体積は小さいので、リンゴの体積を出してみます。

oamusi.jpg写真を見ると、リンゴの直径は間近にいるひとの身長の約11倍ほど。人の大きさを1.6メートルだと考えると、11×1.6で約17.6メートルになります。リンゴを球体だと考えると、体積はおよそ、2800立方メートルです。

フライト時の気温は16℃でした。気球の中の温度を35℃とすると、浮力はなんと約215キログラムです。気球本体の重さを差し引いても、200キロになります。

数人が浮いてしまうのも頷ける浮力です。
逆に考えると、安全対策を充分にすれば、紙で人が飛べる気球を作ることも可能でしょう。

今までの難解なポイント

来年3月に飛ばす人型の気球『春を蒔く人(仮)』は、形の大枠の決定にも時間がかかり、さらに、どのような人物かという概念的な部分で難航している。

制作はいつもスムーズには決まらない。そこで今までの気球で悩んだポイントを振り返ってみた。

■2008年『仔鯨』
離乳期となる仔鯨が空中を泳ぐという気球。
親から離れ、一人で海を泳ぐクジラは、どのような姿なのかを小中学生がスケッチをしながら考えた。
▷クジラのの中に広大な海が広がっているという模様に決定。

■2009年『記憶の種』
気球の中からメッセージが付けられた風船が空中で放たれるという気球。
風船を放つだけなら気球から放つ意味もなく、手紙を付けて飛ばしても単なるバルーンリリースになってしまう。風船に「将来の夢」を書いて付けるようなものではなく、風船を拾った人との関係性を発展させたい。
▷気球を観に来た人が「忘れられない記憶」を書き、風船に付け放たれる。その風船を拾った人は、その記憶を読むことで自らの記憶を振り返る。

■2010年『海月』
初めて、参加者である中学生が「どのような気球にするか」というところから考えた気球。気球の形として「クラゲ」というところまで決まったが、なぜクラゲが空を飛ぶのかという話し合いに。
▷クラゲは「海の月」と書いて「クラゲ」と読む。では、クラゲは自らを月をどう思うのかという疑問が浮かび、「クラゲが月に会いにいく」という物語がつくられ、その朗読をしながらクラゲを飛ばした。

■2011年『かげから』
参加者と話し、「宇宙」というキーワードが挙がる。その宇宙をどのように形にするかが課題。
▷地上から星を見ると「点」に見える。そして星々は遠く離れていても光や重力の関係がある。その関係を視覚化し、狭間に立ち入ることができないか。そのようなイメージから、中学生が描いた巨大な絵を筒状にし、気球内部に配置する。気球を飛ばし終えたあとで気球の中に入り、スモークを炊くと柱の色が空間で混じり合う。

新しいことをすると、いつも新しい問題にブチ当たる。

夢のゆくえ

風船縁に手紙の交流 ヒマワリの種、あさぎり町から宮崎へ
あさぎり町の児童が人権の花運動で飛ばした風船と花の種が、宮崎県南部の串間市の児童宅にたどり着き、手紙の交流が始まった。
ヘリウムが入手困難になっている問題が続くと、このようなイベントもできなくなるだろう。ケンブリッジ大学の化学者Peter Wothers氏はヘリウムの枯渇問題について、風船に使うことすらも問題視している。2009年に使われたヘリウムの10%は風船に使われたそうだ。

資源、環境への配慮を考えるとバルーンリリースをすることは問題視されるだろう。

ただし、風船に結びつけて放ったものが、見えない他者と関係を築けたことで、子どものその後の価値観が変わるかもしれない、ということも考えてしまう。

この意見に対しては、産業的リスクの方が大きいという意見もあるに違いない。

何を大切にするかで判断が変わるのは当然だが、おそらく今後、ヘリウムの価格が上がることは確かだろう。そこで思うのは、「子どもに夢を与えたい」という想いでバルーンリリースをやっていた大人たちが、バルーンリリースがコスト面でできなくなっても、バルーンリリースをすることで編み出せていた「夢」を別の形で行う「工夫」だ。

あったものが無くなったことで、伝えられなくなるというのは敗北だと思う。